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去るものは闇の方に、来るものは光のほうに

 『レ・ミゼラブル』、終りの部分は思わず涙しながらも、ようやく全編読み終えました。それにしても、ジャン・バルジャンにしても、ジャヴェールにしても、どちらも法と良心(あるいはここでは神)との矛盾に苦しむ姿が描かれていますが、なぜ、あのような無体とも思える法にこだわるのか。法律も所詮、世の中を治めやすいように生身の人間がつくったもののはずですが。国民主権の現代日本とは感覚が違うのかもしれません。

 それにしても、ユゴーの薀蓄話を指摘する声はすでに上がっていたようで、訳者の辻昶氏も「解説」に次のように述べています。「こうした非難のほかに、この作品に加えられるのは、すじから脱線した論議がたびたびとびこむので、小説の進行が妨害されるという批判である。事実、「ワーテルロー」「プチ=ピクピュス」「歴史の数ページ」「隠語」「巨獣のはらわた」というように、つぎからつぎへと長ながしい論議がとびこんでくると、小説を読む興味は半減してしまう」(『レ・ミゼラブル 3』p.476~477)。

 しかしながら、そんなに長いものではなく、各所に散りばめられているユゴーの薀蓄のうちには、ちょっと考えさせられることがありました。

 マリユスは、コゼットをすこしずつジャン・バルジャンからひき放していった。コゼットはされるままになっていた。
 それに、ある場合には、子供の忘恩などとあんまり手きびしすぎる言葉で呼ばれていることも、かならずしも世間の人が考えているほど非難すべきことではない。それは自然の忘恩なのだ。自然は、ほかのところでも申しあげたが、「前方に目を向けている」のである。自然は生きているものを、来るものと去るものとに分ける。去るものは闇の方に、来るものは光のほうに目を向けている。そこからずれが生まれる。このずれは老人にとっては致命的であるが、若者たちは無意識にそれをこしらえてしまうので。このずれは、はじめのうちはごくわずかなものだが、枝が分かれていくみたいにだんだんと大きくなる。小枝は幹から離れてしなうことはないが、遠ざかっていく。それは小枝が悪いのではない。若さというのは喜びのあるところへ、お祭りさわぎへ、生き生きとした明るさへ、恋へと向かっていく。おたがいの姿を見うしなうことはないが、おたがいに抱きあうことももうない。若者たちは人生の冷ややかさを感じるのだが、老人たちは墓の冷たさを感じるのだ。こうした子供たちを責めるのはよそう(同書p.437)。

 それともうひとつ

 マブーフ氏はけっして部屋で火をたかなかったし、また、ろうそくをつけないですむように、日が暮れるとすぐ寝てしまった。近所づきあいももうすっかりなくなったようで、外出すると人が彼を避けたが、自分でもそれに気がついていた。子供のみじめさは母親の心をひくし、青年のみじめさは娘の心をひくが、老人のみじめさはだれの心もひかない。それはあらゆる苦境のなかでいちばん寒々としたものだ(同書p.72)。

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 もうひとつつけくわえておきたいことは、人が三々五々集まり、バリケードを構築するところまで、またそこでの戦いについては緻密に描かれていますが、なぜそのようなことに至ったのかという経過や動機については、あまり詳しく述べられていないことです。何か制限させるものがあったのか。それとも作者の限界か。

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