ネジを巻く人間と巻かれる人間
陳舜臣氏の作品に取り掛かっています。いずれも長編ばかりです。はじめて読むので、『阿片戦争』から、興味をもって読めるかどうか確かめながら、ゆっくりとすすめています。
まだ、初っ端のところですが、ちょっと気になるところがありました。それは、主人公のひとりと思しき「連維材」が考えていることを、作者が代弁しているところです。
彼は時代の要求を、全身でうけとめている人間なのだ。彼の行動は、時代の波を原動力とする。しかもまさに疾風怒濤の時代であった。そのエネルギーは底知れぬ威力をひめていた。
そのうえ、彼自身がそのことを、明確に意識していたのである。これはおそるべき自身をうむ。
光栄ある先駆者!
使命感といえるだろう。そのまえには、こどもたちのことも、些細な問題にすぎなかった。
「統分か。・・・・・・あれも囮にしかならぬかつだ」
統分とおなじ系列の人間を、維材は幾人も頭に思いうかべることができる。
たとえば、余太玄もその一人だった。道具にしかならぬ男だ。つまり自らのエネルギーをもたず、連維材のような人間の巻くネジで、はじめてうごく。
「統分」は、連維材の長男。「余太玄」は連維材の食客、中国拳法の使い手です。
人間というのは、本来、独立していながら相互に依存し、刺激しあって生きていますから、他人の影響を受けたり、あるいは逆に与えたりすることがあるのが自然だと思います。したがって、生きていくエネルギーも、ひとりだけでうみ出すものではないでしょう。
しかし、ただ、ネジを巻く人間と巻かれる人間というのは、個人のすべての生活態度がはっきりと、いずれかに分けられるということはないにしても、主要な傾向としてふたつの極があるような気がします。
他人にネジを巻かれて動く人間。みずから課題をつかみ取って切り開くことこうとはせず、外からプッシュされてはじめて動く人間になっていないかどうか。座して何かを待っているのではないか。相変わらず不景気が続く中で、自問自答するこの頃です。
| 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)










最近のコメント