文化・芸術

ネジを巻く人間と巻かれる人間

 陳舜臣氏の作品に取り掛かっています。いずれも長編ばかりです。はじめて読むので、『阿片戦争』から、興味をもって読めるかどうか確かめながら、ゆっくりとすすめています。

 まだ、初っ端のところですが、ちょっと気になるところがありました。それは、主人公のひとりと思しき「連維材」が考えていることを、作者が代弁しているところです。

 彼は時代の要求を、全身でうけとめている人間なのだ。彼の行動は、時代の波を原動力とする。しかもまさに疾風怒濤の時代であった。そのエネルギーは底知れぬ威力をひめていた。
 そのうえ、彼自身がそのことを、明確に意識していたのである。これはおそるべき自身をうむ。
 光栄ある先駆者!
 使命感といえるだろう。そのまえには、こどもたちのことも、些細な問題にすぎなかった。
「統分か。・・・・・・あれも囮にしかならぬかつだ」
 統分とおなじ系列の人間を、維材は幾人も頭に思いうかべることができる。
 たとえば、余太玄もその一人だった。道具にしかならぬ男だ。つまり自らのエネルギーをもたず、連維材のような人間の巻くネジで、はじめてうごく。

 「統分」は、連維材の長男。「余太玄」は連維材の食客、中国拳法の使い手です。

 人間というのは、本来、独立していながら相互に依存し、刺激しあって生きていますから、他人の影響を受けたり、あるいは逆に与えたりすることがあるのが自然だと思います。したがって、生きていくエネルギーも、ひとりだけでうみ出すものではないでしょう。

 しかし、ただ、ネジを巻く人間と巻かれる人間というのは、個人のすべての生活態度がはっきりと、いずれかに分けられるということはないにしても、主要な傾向としてふたつの極があるような気がします。

 他人にネジを巻かれて動く人間。みずから課題をつかみ取って切り開くことこうとはせず、外からプッシュされてはじめて動く人間になっていないかどうか。座して何かを待っているのではないか。相変わらず不景気が続く中で、自問自答するこの頃です。

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クジラがクジラなら、ゴジラはゴジラか

 このタイトルでは、同語反復で何のことやら分からないと思いますが、言いたいのは「ジラがクジラなら、ジラはゴジラか」というアクセント(文字)の問題です。中国地方では、鯨のことを「クジラ」と「ク」にアクセントを置くのが一般的だったと思います。ところが最近、このアクセントに変化が生じてきています。

 家族の中でも、「ジラ」と正統に発音するのは私だけで、「クジラ」という言い方が幅を利かせています。「そう言うのなら、『ジラ』は『ゴジラ』と言うべき」と反論するのですが、あまり相手にされず、こちらもときどき、不覚にも「クジラ」と言ってしまう始末です。おそらくテレビなどによる「東京言葉」の影響でしょう。

 ところで最近、ニュースなどで、アナウンサーの話す単語のアクセントが平板化していて、耳につくことがあります。例えば、このたびの新型インフルエンザに関する報道でも、その警告段階を示す「フェーズ」という言葉。原語は「Phase」ですから、本来なら「フェィズ」と言うべきではないかと思いますが、ほとんどのアナウンサーはアクセントを付けずに「フェーズ」と言っているようです。

 アクセントの平板化について、「国立国語研究所」のホームページに面白い解説http://www.kokken.go.jp/kanko/kokken_mado_mt/09/04/
があったので、引用してみます。

平板化はなぜ起こるのか
 東京の言葉を中心に,アクセントの平板化は大きな流れとなって進行しています。それでは、このような変化はなぜ起こるのでしょうか。難しい問題ですが、まず考えられるのは、記憶の負担や発音の労力を軽減して、「コスト削減」あるいは「省エネ」で行こうということです。起伏式の場合、個々の単語ごとに下がり目の位置を覚えなければなりませんが、平板式はその必要がありません。また、下がり目が無ければ、発音の労力もその分だけ減って楽になるということでしょう。

平板化アクセントの印象は
 ところで、「サーファー」「モデル」「バイク」「ビデオ」といった外来語のアクセントの平板化については、「専門家アクセント」という面白い指摘があります。平板化がいち早く起こるのが、その単語を普段からよく使う人たちの間であり、ある種の単語のアクセントを平板化することが、その分野によく通じていることの目印になるというのです。また,例えば「バイク」を平板式で発音する人たちの間には、仲間意識が育つことにもなるといいます。
 起伏式アクセントは、平板式に比べて確かに際立って聞こえます。それを平板化して滑らかに発音すれば,どこか特別扱いを解除したような気分になるのでしょう。ある種の単語を発音の面でも自明のようにさらりと扱うことが、自分が専門家であるとアピールすることにつながる、そんな意識が働いているのかもしれません。

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三滝寺の個性的な石仏たち

 春の三滝山に登りました。少しハイペースだったためか、下山するころには左膝と右大腿部にちょっとした痛みが・・・。結構ハードでしたが、ウグイスの声を聞きながら、さわやかな新緑に触れることができました。

 登山道の入り口と出口は、三滝寺を通るコースなので、境内を通る道のそばに置かれた数え切れないほどの石仏を見ることができます。それぞれ個性的で、いろんな顔や姿をしています。目に留まったいくつかを写真に。

 横になってゆったりしていたり、眉間にシワをよせていたり、仲良くよりそっていたり。朝ドラの“つばさ”によく似た像もありました。 それぞれいろんな思いを込めて造られ、祀られているのでしょう。写真は撮りませんでしたが、花をそえられている小さな子どものような石仏もありました。

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涙なしには聞けない 『手紙~親愛なる子供たちへ~』

 今朝NHKのニュースで紹介されていた『手紙~親愛なる子供たちへ』。ほんの少しだけの放送でしたが、心を打つものがあったので、早速“youtube”で探してみたところ、全曲バージョンがありました。http://www.youtube.com/watch?v=DNuEUygU1vA

 「千の風になって」と同じように、作者不詳の外国の詩が元になっているようです。その詩に、よく知らない人ですが、角智織さんと樋口了一さんが日本語で訳詞をつけ、樋口了一さんが作曲して、さらに樋口了一さんが歌っています。

 淡々としながらも、リアルな事柄が詠われているので、鼻歌で気軽に口ずさめるような曲ではなく、どちらかといえば少し重みのある内容です。でも、自分の心構えを戒めるために、たまに聞いてみたい曲になりそうです。

 作品へのコメントを読むと、介護したことがある家族や介護職従事者からのメッセージが多い。介護や世話をしていると、お年寄りの失敗に対して、ついつい辛くあたってしまいがちです。そんな人の心に、ふとふり返らせるものがあるようです。

 日本の社会は、これから高齢化がさらに進みます。誰しもいずれ年をとって高齢者として、生きていくことになるわけですが、できるだけ人の世話にならないよう生きていたい。でも、認知症になると、自分を制御することができなくなって、介護される側になるかもしれない。

 そりゃ大きくなるまでという限りがあって、どんどん成長していく育児と違って、限りなく衰えていく過程を介護するのは大変です。確かにきれいごとではすまないでしょう。でも、“give and take” ということではなくて、人間としての出発を助け、育ててくれたことに対する感謝の気持ちを忘れないようにしたい。

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大切にしたい 心の底から人に喜んでもらいたい気持ち

 山本一力氏の作品は、ほとんど江戸時代の庶民の生活を描いたものです。どれを読んでも、ほのぼのとした気持ちになれて、はずれることはないのですが、逆にどの作品を読んでも、あまり強いインパクトを感じない、それほど変わらないような印象をもってしまうという半面を持っています。

 いま、『銀しゃり』という寿司職人を主人公にした作品を読んでいます。これも同じような調子ではあるのですが、山本作品に改めて気がついたことが2つあります。この記事では、ひとつだけ書くことにします。

 それは、主人公の新吉が信頼を寄せている武家、小西秋之助に仕えている下男と下女のふるまいに関することです。主人の秋之助はとても好人物で、ふたりとも尊敬しています。あるとき、秋之助に嬉しいことがあって、ふたりも命令された以上のことをします。何気ないことですが、それは、媚ではなく、仕える人に心から喜んでもらいたいと思ってのことです。

 決して、自分の利益を根底において、そのために相手に尽くすというのではないのです。会社や組織などに勤めると、目上の人にあれこれ気を使うよう指示を受けることがありますが、人から強要される行為というのは本物ではないでしょう。そういったことで、気を使われた人も、当たり前と考えるだけで、心から喜ぶとは思えません。

 江戸時代の庶民の人情といっても、山本氏も想像して書いているのでしょうが、理想社会を描いているのかもしれません。主従関係が軸の封建社会ですが、江戸の町には商品経済が浸透していたことでしょうし、どこまで純粋さが残っていたか疑問です。

 それにしても、現在の社会は、どういう行動をしても何か下心があるかのように考えてしまうようです。テレビのニュースなどでも、ある行為をしたことを報道したとき、必ず「〇〇の狙いがあるものと見られます」というコメントを付け加えるのもそのためかもしれません。

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過去を悔やまず、前へ前へと新しいことに挑戦する

 生きている以上、「しまった」と思うことは次から次へと限りなく出てきます。しかし、それにいつまでも拘泥するか、それとも過去を振り切り気分を変えて、新しいことをめざすかどうかで、気分はずいぶん変わるようです。

 『菜種晴れ』(山本一力著)を呼んでいると、山本作品の主人公によく見られるような、二三(ふみ)の抜きん出た素質と才能に少し気後れしますが、火災や地震などの災害で何度打ちのめされても、そこから立ち上がってくる気力には敬服してしまいます。

 二三の生き方を凝縮した部分を抜粋すると、「後を振り返ってあれこれと思い出すのは、二三の生き方ではなかった。なにが起きても懸命におのれを奮い立たせて、前へ前へと歩んできた。そうすることで、悲しさやつらさをなんとかいやすことができた」ということになると思います。

 確かに、過去の辛い思い出や失敗に、いつまでも悲しみ、悔い悩むより、前を見て生きる方がずっと良いかもしれません。過去の失敗は、教訓にすることはあっても、いつまでも悔い悩んだりすることなく、新しいことに挑戦する。そういう気概が大切ですし、精神衛生上も良いと思います。

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「だらず」の意味の変遷 「バカ」から「怠け者」へ 

 広島では使いませんが、「だらず」という言葉があります。島根県西部地域から広島に来ている人から聴いた言葉ですが、「だらしない」という意味で使っているようです。「だらず」の「だら」と、「だらしない」の「だら」が共通しているので違和感なく、もっぱらそのように理解して、ときどき真似をしていました。

 しかし、以前鳥取市に行ったとき、地元の人が、ふと「あ~、だらずじゃった」と口にしました。「ほぉ、鳥取でも『だらず』という言葉を使うのか」と興味があったので、意味を聞いてみると、ちょっとしたミスをしたらしく、「バカなことをした」と自分を戒めたのだと教えてくれました。同じ「だらず」でも、それまで考えていた意味と違っていました。

 聞き逃しましたが、連続ドラマ『だんだん』でも、この「だらず」という言葉が出てきたことがあるとのこと。ネットで検索してみると、松江・出雲地方でも使われていて、やはり「バカ」という意味だそうです。同じように日本海に面している北陸地方では、「アホンだらぁ」の「だらぁ」を、独立させて「だらぁ」を「アホ」に近い意味で使うらしく、これが語源ではないかという説もあるらしい。「足らず」という言葉から、「だらず」に変わったという話です。

 それでは、「だらず」を「だらしない」という意味で使うことはないのか調べてみたところ、島根県西部の石見地方の方言で、「だらず」は「怠け者」のことを言うらしい。「怠け者」と「だらしない」は、ほぼ同義語と考えられるので、一件落着です。おそらく、もともと「バカ」という意味から派生して、他人や自分を攻撃・批判するという点では共通した部分のある「怠け者」を意味するようになったのではないかと推測されます

 方言は、同じ言葉でも地域と時間の経過によって変化するようです。地域のヨコ軸、時間のタテ軸を見ていくと面白い。まぁ、しかし、それほど意味のあることではありませんから、頭の片隅に関心を引っ掛けておいて、暇なときに追究してみたら、ブログのネタぐらいにはなるかもしれません。

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琴線に触れた『蒼龍』

 夏頃から山本一力氏の著作を読んでいます。江戸時代のさまざまな職業に携わった人たちの様子が描かれていて、これまで知ることのなかった世界に導いてくれます。いくつかの作品に共通する登場人物も描かれていて、そういう人物に出会うと親しみが湧いてきます。

 日常生活が淡々と描かれていることが多く、たとえ事件が起こっても最悪の不幸な結末になることはない安心感があります。主人公が人並みはずれた能力を持っていたり、心根は善人である渡世人などが助っ人になったりして、困難があっても切り開いて成功していく明るい話がほとんどです。

 心温まる作品が多いのですが、もうひとつ心の奥底に響かないと思っていたところに、『蒼龍』に出会いました。五十五両の大借金を抱えた大工夫婦が、借金を返すために、瀬戸物の大店岩間屋が募集した茶碗の新柄の作成に挑む話です。1度目は、ビギナーズ・ラックで最後の5人まで残ったが落選、2度目は予選で落選。そして3度目の挑戦です。

 予選は通過しましたが、二次予選を通過したかどうか。通過したときしか来ない知らせを待ちくたびれた弦太郎が、八幡様へ気分転換に出かけたときに、こんなふうに思います。

 へええ・・・そうかねえ・・・。
 いまのいままで、どうしてこんなにツキがねんだって不貞腐れてたが、そうじゃねえ。描きたい絵が描けて、親方やら孝蔵さんやらに恵まれて、しっかり女房に病気ひとつしねえ子どもがいて、きっちりおまんま食えて。みんな嬉しそうに笑ってらあ・・・。
 重てえ気分が、すっきり消えた。
 肝心なところで、おれにはきっちりツキがあるじゃねえか。

 3度目は、うまく行ったかどうか描かれていませんが、主人公はこれまでの幸せにふと気づいて、ダメだったらまた挑戦しようという気持ちになっていくようです。結果が描かれず、余韻を残したまま終わっているのがいいところです。

 日常生活で当たり前と思っていることの中に、実は「ツキ」があるにもかかわらず、その肝心なところに目を向けることなく、毎日々々「不貞腐れた」気持ちになっていないだろうか。私としては、世の中の動きとは別に、考えてみなければならないことかもしれません。

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広島県美術会議展に行って来ました

 第69回広島県美術会議展を見に行ってきました。「あおぎりカイロプラクティック」に絵を展示していただいている江草昭治さんから案内がありました。25日まで中区鉄砲町のギャラリー・ブラックで行なわれています。

 美術展の作品を見るとき、以前はひとつひとつ解説などを読みながら鑑賞していましたが、しかし、それでは心身ともに疲れるので、近頃はさっと見ながら、琴線に触れた作品だけをじっくり見るようにしています。

 会場係の方に許可を得て、江草さんの作品を撮影させてもらいました。残念ながら、照明が写ったり、斜めになったりして、作品写真としてはあまり良いとは言えませんが・・・。クリックしてみてください、大きくなります。

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「だんまり」は、もともと歌舞伎の演出用語

 都合の悪いことを聞かれて、口を閉ざしてしまうことを、「だんまり」とか「だんまりを決め込む」とか言いますが、なぜ「黙(だま)る」という言葉の、「だ」と「まる」の間に「ん」を挟むのか、この言葉を聴くたびに何か変な言い方だと思っていました。

 単に、語呂が良いからというふうにも取れますが、調べてみると、もともと歌舞伎の演出用語なのだそうです。一座の役者の顔見世のようなもので、登場人物が暗闇の中、何かを求めて探りあい、立ち回る様式化された無言劇ということです。ゆっくりした動きで、衣装や形の美しさを見せるらしい。

 「だんまり」を演じるとき、暗闇を表現するために背景に用いられるのが、「黒幕」ということですから、日常会話に中に歌舞伎の言葉が使われていることがあるようです。

 残念ながら、これまで歌舞伎をまともに鑑賞したことはありません。正月などには、テレビで放送されることもあるようですが、何となく退屈そうな感じがするので、ほとんど見たことがないですね。

 でも、日本の伝統文化ですから、機会があれば、いつか齧ってみたいとは思いますが、しかし、楽しめるものなんでしょうか。中学生時代のクラシック音楽鑑賞みたいに芸術研究のような態度で、のぞまなければならないとしたら、あまり触れたくないような気もしますが・・・。

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勉強になります 『暖簾』の精神

 山崎豊子全集も残すところ後、第1巻のみです。はじめは長編をアトランダムに、終盤は山崎氏が書いた時間を逆に読みました。特に目的意識をもっていたわけではないのですが、結果的にそうなってしまいました。

 『花紋』あたりから大阪が中心に、『女系家族』より前になると、船場が舞台の中心になってきます。それぞれ、違う展開があって面白いのですが、『花紋』や『女の勲章』、『ぼんち』は、われわれの実生活からは計り知れない男女関係が前面に出てきて、少し違和感がありました。

 しかし、山崎氏の処女作である『暖簾』の主人公吾平と息子の孝平の物語は、商売一筋です。そんなところに、共感できることが多いようです。カイロプラクティックは「民間療法」ですから、商売そのものとは少し違うと思いますが、経営的な要素はあります。そういうことから、ろくな資産もないのに、先物取引とか、株とかいろいろ誘惑をかけられることが多いのです(すべて断っていますけど・・・)。

 「孝平は、新円階級はやっぱり新円階級らしい金の蓄め方をしよると思った。昆布の商いで儲けたものは、昆布の商売にだけ使って利益を産む、株券や信託などという消極的な蓄積には使わないというのが孝平の考え方であった。それだけに孝平は大阪の商人の間を吹きまくった株式暴落には、躓かなかった」

 そうしながら、孝平は10年先を見越して、昆布屋を再建して行くのですが、つねに昆布の質を高めていくことに専念しています。父の吾平を拾い上げた「浪花屋」の旦那は、「商売人というもんは、何事堪忍やぜェ」と言っていましたが、なかなか含みのある言葉ですね。

 『暖簾』は50年前の作品ですが、勉強になります。「民間療法」でも、やっぱり基本は、来店される方の痛みや苦しみを改善することのできる技術だと思います。目先のことに眼を奪われて、これをおろそかにするようなことがないようにしたい。

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スカッとするどんでん返し・・・『女系家族』

 文乃の様子に、まだ何かあるとは思っていましたが、想定外の結末でした。これまで、遺産分け取りをめぐって行なわれる姉妹・親族間のやり取りや大番頭のカスメ取りに、鬱々とした気持ちとそれに相反した行く末に対する興味を持って読んでいました。しかし、最後のどんでん返しは、金亡者の魑魅魍魎に一矢報いるような、スカッとした気持ちにさせてくれました。

 まさか、胎児認知という動かすことのできない法的手段があったとは。そして最後の決め手は、文乃に託していた遺言状の第二弾です。ストーリーの中ではすでに死亡している嘉蔵の仕組んだ、精緻な復讐劇です。養子婿として、よほど鬱屈した人生を歩んできたんでしょうね。

 現実には、遺言状を保管しているものは、相続が開始されたら家庭裁判所に提出しなければならい旨、民法に規定があるそうなので、文乃のように最後の最後まで隠しておくということも難しいようです。

 山崎豊子さんの作品は、やはり面白い。確かに書かれているすべてが事実に忠実というわけではないのですが、事実を細部にわたって取り入れながら、誇張されたフィクションの世界を作っていくところが良い。やはり小説は、そう思って読まなければならないでしょう。但し、山崎作品は、あまりにもリアリティで、現実と虚構の区別がつきにくい。しかも普段、垣間見ることのできない社会のこととなるとなおさらです。

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すさまじい遺産相続争い・・・『女系家族』

 山崎豊子著『女系家族』を半ばまで読んでいます。先代の遺産をめぐって、三姉妹と親族、大番頭などが、すさまじいやり取りをします。自分の取り分を如何に増やすかばかり、家族同士や他人への思いやりや愛情などは、微塵も感じさせません。

 社会の暗部を描き出す山崎氏の作風でしょうか。すべて腹に一物をもつ人物ばかりです。ところで、この作品には善之助が出てきませんね。結果が簡単に予想できないところが、面白いところですが、読んでいて決して愉快になるストーリーではないようです。

 確かに資本主義の世の中で、利益を上げ続けることで生きていける社会ですから、一部に、特にハイソサェティには、こういう社会があることは間違いないでしょう。そういう人たちには、それなりの対応が必要なこともあります。

 社会の一部を極めてリアルに描いているかもしれませんが、周りがこんな人間ばかりだったら、お人好しの「善人」は生きていけませんぜ。ケツの毛まで引き抜かれてしまうってもんでさぁ。

 世の中、目端がきいて利に聡い、金儲けの上手な人も当然あるでしょう。そういう人は、この作品の登場人物のように、満足して留まるということがないようです。しかし、それくらいでないと、「勝者」にはなれないのかもしれません。

 しかし、金絡みでない駆け引きというのも、あるんでしょうかね。山崎作品を読むと、金の亡者のことばかりではなく、人の心の奥底にあることが描かれているので、これまで「脳天気」で生きてきたことが反省させられるような、それはそれで良かったような。もう一度考え直してみたくなります。

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『華麗なる一族』を読み終えて

 山崎豊子さんの『華麗なる一族』を読み終えました。文化革命後の中国で、これぞ資本主義の実態だと大好評だったそうですが、この小説に日本社会の本質すべてがありのままに描かれているとは思えません。確かに、利益追求が優先する社会であることには間違いないでしょうが、ストーリーを面白くするための誇張や虚構が入っているようですね。

 但し、生き残るために、食うか食われるか出し抜くか出し抜かれるかの、たたかいを展開しているのは事実でしょう。相手を陥れるような卑劣な手段を講じていることも、あるかもしれません。話に聞くとろこによると、今や市場経済導入で、中国でも貧富の差は拡大し、官僚の腐敗などが起こり、一部では同じようなことになっているような気がします。

 それにしても、有無をいわせぬ閨閥結婚など封建時代以前の武家社会のようなことが、現代社会(30年くらい前ですが)で本当にあったのでしょうか。当主の願望を追及するためには、結婚する本人の意向などお構いなし。民主主義や日本国憲法はどこにあるのかといった感じです。見合いで多少そういった利害関係のある人を紹介することはあるにしても、結婚するかどうかは当人が決めるのではないでしょうか。

 妻妾同衾もグロテスクな話です。これは女性作家の発想だからこそという感じがします。話の中で、どこか銀行の副頭取が料亭の仲居に手を出して恐喝されていましたが、褒めるわけではありませんけど、まだこの方が男の本能的な傾向としては、自然なように思えます。

 これで山崎さんの長編はすべて読んだことになります。綿密な調査と取材で、ストーリーを事実で検証しながら組み立てていますから、読み応えのある作品ばかりです。小説ですから、面白くするために「善之助」的、「悪之助」的人物が登場して、丁々発止するのは当然でしょう。ただ、社会科学的な観点が弱いところが残念です。そのためか、社会の暗黒がリアルに暴かれるのですが、暗鬱とした気持ちのままで終わってしまいます。

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「得る」を「うる」と読むのは時代遅れになる?

 高校時代か中学時代か忘れましたが、国文法で、「得」というのは、下二段活用で「え・え・う・うる・うれ・えよ」と読むから、「得る」は「うる」と読むと習った記憶があります。否定形の「得ない」が「えない」ですから、そのためこの言葉を使うときには、間違いやすいので、正しく使うように特に気をつけてきました。

 ところが、これを「える」と読む人が多い。テレビのアナウンサーまで、平気で「える」と言っています。これまで「何と素養のない!」、「きちんと基礎教育を受けていないのだろうか」などと考えていました。しかもワードでも、「得る」の文字に変換しようとしたら、「える」でないとできません。

 しかし、ときどき発表される日本語の使い方についての問題提起にも、不思議と取り上げられることがありません。どうも納得がいかないので、調べてみました。すると、時代の流れとともに、かなり変遷があったようです。

 もともとは、下二段活用として使われていたのですが、鎌倉・室町時代に、終止形が連体形で代行されるようになり「え・え・うる・うる・うれ・えよ」と、使われるようになったとのこと。それがさらに江戸時代になると、下二段が下一段活用に変化し、「え・え・える・える・えれ・えよ」と使われるようになったそうです。これが今、使われている用法で、結構歴史はあるんですね。ですから、間違いとは言えないようです。

 他の言葉も同じような変遷をへて、使い方が変わってきていますが、「うる」だけ文語的な言い方として残っているということです。言葉は時代とともに変わるということは、聞き知っていますので、そういう意味では、仕方ないことかもしれませんが、「有り得る」を、「ありうる」ではなく「ありえる」と読むのは、何だか違和感がありますね。

 もっと詳しく知りたい方は、次のページをどうぞ。http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1215335042

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『華麗なる一族』 グロテスクな家族(同居)関係

 『華麗なる一族』を読みはじめています。テレビで放映されたドラマは、昔のも最近のも見ていません。山崎豊子氏の著作には、豪奢な暮らしをしている金持ちがよく登場しますが、いわゆる上流社会での仕事や生活は、普段窺い知ることのできないものですから、社会勉強になるのは確かです。

 しかし、『華麗なる一族』の家族関係というか、同居関係というのはグロテスクそのものですね。「気色が悪い」という表現がぴったりです。これまでの山崎氏の作品は、ついつい引き込まれてしまうものが多かったのですが、今度ばかりは、それが引っかかるのか、あまり食指が動きません。

 先日『偽装集団』を読みましたが、これもテーマが琴線に響かない作品でした。当たり前のことだと思いますが、山崎作品もすべてが魅力的というわけではないようです。まぁ、『華麗なる一族』も読み始めた以上、終わりまで読むつもりです。しかし、まだ背景も十分理解できたとはいえない段階ですので、評価を下すのは早いかもしれません。

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小説は、真実と虚構の対立物の統一

 山崎豊子氏の小説をかなり読みました。長編で残っているのは、『華麗なる一族』だけです。

 それぞれの舞台となっている時代や状況の真髄に迫ろうする山崎氏の取材量と、そのエネルギーには驚くべきものがあります。日常生活ではあまり触れることのない政界・財界など、その中でうごめく人間の姿が描かれており、認識を新たにすることもあります。

 しかし、描かれているのは、あくまで小説であり、虚構の世界です。ありのままの真実ではないことを、念頭において読むことが必要でしょう。

 山崎氏自身が言っているように、意図的に性格的に対立する人物や事物を配置して、小説としてのメリハリをつける作為を行なっています。

 ありのままの真実といういのは、おそらく退屈で、小説にしても読む気がしないでしょう。対立する人物や組織が激しくやりあうという構図があるからこそ、興味を持ってハラハラ、ドキドキしながら読み進めるのでしょう。

 小説というのは、限りなく真実に近いが虚構(フィクション)であるという、対立物の統一をなしとげているものが、本当に面白いのかもしれません。

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『大地の子』読んでいます ①

 山崎豊子著『大地の子』は、1980年代半ばに執筆されたようです。いま第1巻を読んでいます。第2次大戦の残留日本人孤児である陸一心を通して、敗戦直後の日本の敗走の様子から、中国の文化大革命の状況が描かれています。あまりにもすさまじくて、すべてリアルに受け止めていいのかどうか、考えてしまいます。

 日本軍(人)によって、親・兄弟などの肉親や係累を殺され、傷つけられ、略奪された中国の人たちは、何かにつけて、一心につらくあたります。子どもだから責任を問うべきではないにもかかわらず・・・。しかし、その気持ちは分かるような気がします。戦争では、憎しみと悲しみしか生まれないことも。

 文化大革命も激しいですね。歴史書よりも小説の方が、実態がリアルに伝わってきます。カンボジアのポルポト政権も毛沢東派といわれていましたから、これを見習ったに違いありません。知識層の大半が冤罪で処罰され、労改という刑務所に近い組織に入れられる。一心の受けた処遇を見ると、当時の国際社会の中で、とても革命後の中国社会は受け入れられなかったなかったでしょう。

 しかし、おそらく中国が進んだ資本主義社会を体験せずに、農業国から新しい社会に踏み出したことに大きな原因があるのではないかと思います。個が確立していない。大勢順応で流される人が主流では、こうなってしまうでしょう。たとえ一人になっても、自分の考えを貫くという人が多数を占めるようにならないと。

 省みてみるに果たして、日本がそこまで成熟した社会になっているでしょうか。自分自身、そこまで確固としたアイデンティティを持っているかどうか、問うてみる必要があります。大勢に流れていないか。強いものや大きいものに盲従する傾向はないか。自らの問題としては、未だ達せず、努力中と言わざるをえないかもしれません。意固地・偏屈になるのは易いのですが、難しくて大事なことは、自らものごとを判断する力をもつことです。

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『不毛地帯』を読んでいます②

 『不毛地帯』全4巻読みました。戦闘機から自動車、石油、綿花に関わるすさまじい商社の実態が描かれています。商戦に勝つためには、人脈と情報と金、政治家・要人への賄賂などは当たり前、果てには家宅侵入まで、ありとあらゆる手段を使う。

 学生時代に友人との論争で、「戦後日本の高度成長を支えて来たものは、何か分かるか」と聞かれて、こちらの答えがうまくかみ合わなかったことを思い出しました。おそらくその友人は、商社こそ日夜を問わず世界中を走り回って、日本の経済発展に大きな役割を果たしたのだぞ」と言いたかったのでしょう。

 『不毛地帯』の中に、そのような言葉が出て来る場面がありました。今振り返ってみれば、友人との論争は、ちょうど『不毛地帯』が『サンデー毎日』に連載されていた頃のことです。その当時は、山崎豊子の著書など読んだことがありませんでしたが、その友人は読みかじっていたのかも知れません。いま読んでみて、経済の表の屋台骨はこういう人たちが支えて来たのかと、リアルな執筆に改めて勉強になりますね。

 ただ、壱岐正にしても、天下国家を論じながら、それは結局近畿商事ための口実に使っているように思われて仕方ありません。サラッと言うだけで深い探究がない。ちょうど国際的な流れは外交による解決の方向に向っているのに、国際社会の要請とか言って新しい法律をつくり、テロ報復戦争に加担し続けようとするように。

 営利企業である以上、会社の儲けと拡大が最優先で、理屈は後からついて来るってことですか。いま軍需産業の防衛省幹部の接待・賄賂疑惑や、装備の価格水増し問題が話題になっていますが、『不毛地帯』から30年たっても一向に改善されないどころか、産官の関係は天下り天上がり含めて一層、巧妙で密接なものになっているようです。

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『不毛地帯』を読んでいます①

 『不毛地帯』(山崎豊子著)を読んでいます。第1巻が終わりました。

 戦争やソ連の捕虜収容所の観方は、大本営作戦参謀陸軍中佐である壱岐正の目を通して描かれているので、それなりの対応が必要でしょう。

 しかし、それにしてもソ連の捕虜たいする扱いは、言語を絶するものがありますね。捕虜のみならず、ソ連社会全体が囚人政治と言われていた意味がよく分かります。

 そして、これからも展開されるであろう商社の実態。人生知らないことが多いものです。描かれているのは、半世紀前のことですが、現在のことだとして考えてもすさまじい。

 先物や株の取引で儲けようとするなら、やはりあれくらいの情報収集、機敏さ・豪胆さ、資金力が求められるようです。それでも大損をすることがあるのですから。

 ときどき、当店にも先物取引の勧誘に来ますが、素人が手を出すようなものでないですね。資金的な問題もありますが、他人任せでできるような代物ではないことが、よく分かりました。

 これから、自衛隊の次期戦闘機をめぐって、商社と政治の問題が展開されるのでしょうが、ちょうど今、某防衛省前事務次官が商社から接待や便宜を受けていたことが明らかになっているところ。今後に興味深々です。

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『白い巨塔』全巻を読み終わって

 『白い巨塔』第三巻、読みました。第二巻に続いて手に汗握る面白さです。全体としては社会の暗部を取り上げているためか、暗い話ですね。

 誤診かどうかという点では、かなり難しい裁判だと思いますが、二審では、やはり真実は曲げることはできず、患者側が勝利し、財前側が敗訴しました。

 裁判をしながら、学術会議選を闘った財前五郎は、最後に無理がたたったのか、胃癌が進行・転移して死にます。「医者の不養生」と良く言いますが、連日強い洋酒を飲んで大丈夫かと思っていました。フィクションですが、現実としたらそれも原因になるでしょう。

 財前五郎は、何を求めて生きてきたのか、考えさせられるところです。金と権力。若いときの苦労が、その獲得に走らせたのでしょうか。あれだけの外科医としての実力があるのですから、高望みしなくても、自ずとそれなりの地位と生活を得ることはできたでしょうに。

 里見脩二の言うように、非は非として認めて、謙虚に生きていけば良いように思いますが、一度金と地位を手にすると、自分だけでなく周囲も、さらに上を目指して、止まらなくなるのでしょうか。

 金にも地位にも、いずれにも縁がない私には、まったく関係ない富裕層社会の話です。しかし、教授選といい、裁判対策といい、さらに学術会議選といい、社会の裏取引とはこういうことかと、改めて勉強になりました。

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『白い巨塔』を読んでます ③

 第二巻は、特に面白い。一気に読んでしまいました。待望の第一外科教授となった財前五郎の「誤診疑惑」をめぐるストーリーです。

 読む側としては、ついつい財前教授の患者に対する横柄な態度に、腹立たしい思いがして、裁判でも原告の患者側の立場から、見てしまいがちです。

 死亡した患者側からしたら、他のものに代えられない気持ちでしょうが、しかし医学的に誤診といえるのかどうか。第二巻を読む限り少し疑問が残ります。

 財前は、手術前の時点で、胸部断層撮影その他の検査を行なったからといって、癌がつきとめられたかどうか分からないから必要性を認めなかった。臨床を重ねてきた外科医として、患部を切除したときに転移はないと確信したというのなら、それを裁判でもつらぬくべきです。

 事実を認めないで、下手な口止めや虚偽の証言を画策するから、おかしなことになる。人の口は力で封じることはできても、良心を封じることはできますまい。第三巻では、どうなるのか楽しみです。

 誤診かどうかより、判決に述べられているように、財前教授の患者に接する態度にこそ、一番の問題があるのではないかと思います。それに、財前が旅行中の代理である金井助教授らの責任はどうなるのか。直接の担当医の柳原には、検査する権限もないのか。

 ただ、自分がこの現場にいたとしたら、里見脩二のような毅然とした態度が貫けるのかどうか。格闘技は好きですが、もともと、ものごとを即断できず、公然と人と争うことが苦手な方ですから、流れに抗して筋を貫けるかどうか・・・などと考えてみるもの面白いものです。

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『白い巨塔』を読んでます ②

 『白い巨塔』には、医学にたずさわる人の中にあるさまざまなタイプが描かれています。2巻以降これからどうなるのか、まだ分かりませんが。

 その中で特に印象的なのが、主人公の財前五郎のように実力もあり、派手に立ち回って地歩を獲得していくタイプと、里見脩二のように研究一筋に打ち込むタイプ。

 自分のこれまでの人生を振り返ってみると、とても財前のような生き方はできそうもない。かといって、研究一筋といっても、流れの中心的なテーマをつかむかどうか、研究資金の確保をどうするかなど、それはそれなりの葛藤が求められると思います。ただ、派手さがなく、つつましく生きているという点だけは、里見タイプですね。

 それにしても、山崎豊子さんの取材力には、いつも敬服します。医学問題もリアルですね。

 リアルに分かれば分かるほど、専門的に医学を学んで、試練を経て医師になった人と、同じように人の健康に関する仕事をしていても、一般人に毛が生えた程度の知識しか持ち合わせない自分のような民間療法家とは、こうも違うものかと思ってしまいます。

 ただ、それで卑屈になるのではなく、痛みやコリに悩んでいる人に対して、渾身の智恵と体力を使って何とか改善したいという気持ちは、民間療法家のプライドとして強く持ち続けたいと思います。

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『白い巨塔』を読んでます ①

 いま、山崎豊子さんの『白い巨塔』を読んでいます。1巻の教授選が終わったところです。巻末のエッセイに掲載されている取材写真が、1963年ですから、40年以上も前の作品です。

 そういえば子どもの頃、テレビでこの題名の番組が放送されていましたが、内容が理解しがたくて、あまり興味をもてませんでした。ただ、主人公の「財前」というのが、「ぜんさい」に似た変な名前だと思ったことを覚えています。

 原本をはじめて読んでみましたが、面白いこと。国立大学医学部の教授選が、選出される本人の実力と人間性を重視した選考ではなく、公職選挙法は適用されませんから、利権、将来の地位、金をめぐる様々な駆け引きが行なわれることがリアルに著されています。

 特に決戦投票の際に、選考委員長の大河内教授が今回の教授選に対して「いやしくも国立大学にあるまじき不正と欺瞞に満ちた気配が濃厚な選挙はないように思われる」と厳しく糾弾する場面があります。

 続いて大河内教授が、「その乱脈ぶりは、まさしく今日の保守政党の総裁選挙のそれに近い無節操、無秩序ぶりである」と述べるところがあります。四十数年を経ていま、某政権党の次期総裁を選ぶ選挙が行なわれていますが、勝ち組に乗って、将来の大臣ポストや利権の確保を計算して人を選ぶなんてことは、ないでしょうね。人類の英知を発展させるのには40年は、短いですかね。

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恐るべし 魑魅魍魎の跋扈する日本社会

 山崎豊子さんの『沈まぬ太陽』、遅まきながらようやく全編読み通しました。1995年1月に『週刊新潮』に連載開始された作品ですから、12年前ですか。最終回原稿が1999年3月。

 それにしても、ケニア、タンザニア、ウガンダからパキスタン、イランなどへの訪問、御巣鷹山事故の遺族や関係機関、日本航空とその関連会社などに対する取材は、たいへんな労力が必要だったのではと思います。

 著者も「巨大な組織であり、政治と結びついている航空会社の力は、予想を遥かに越え、個人の力など巨像の前の蟻に等しい。一時は挫折しそうになった」と述べているほど困難を極めたようです。

 御巣鷹山事故が偶然ではなく、起こるべくして起きたことが、この作品を読んでよく分かりました。作者が「魑魅魍魎」と表現している、政治家も絡んだ社内の利権構造が、骨の髄から会社を腐らせていきます。安全など二の次、自分たちの利権と地位の確保が最優先するものが中枢に座って徒党を組み、正論を通そうとするものを排除していきます。

 しかし、これは作品の中にも書かれていますけど、一航空会社だけでなく、日本の政治や社会の構造と大きくかかわっているようです。日々報道される事件を見ると、現在にいたってもなお一層、政治そのものが官僚組織も含めて利権と地位への妄念に取り付かれているのではないかと思われます。

 著者は「今回は取材、執筆共に非常に忍耐と勇気のいる仕事でしたが、その許されない不条理に立ち向かい、書き遺すことは、現代に生きる作家の使命だと思いました」と述べていますが、著者と、政治や社会に対する観方がすべて一致するわけではありませんが、その勇気と力量は尊敬に値すると思います。

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