つぶやき哲学

思い込みを追究して逆の結果に到ることも

 『CNN.cp.jp』サイト(2009.07.06)に「コーヒーに口臭予防の効果と イスラエルの研究者」という記事がありました。世界中には、いろんなことをいろんな角度から、研究する人たちがいるものです。そして一般的な仮説から、思いもかけない結果を導き出すことも。

ロンドン(CNN) これまで「口臭の原因」の1つとされることの多かったコーヒーに、実は口臭を抑える効果があるとの研究結果を、イスラエルのチームがこのほど報告した。
 テルアビブ大医学部で口臭の治療などを研究するメル・ローゼンバーグ氏らは、コーヒーが口臭を引き起こす仕組みを解明しようと、口の中から採取しただ液に、同国や米国のメーカー数社のコーヒーを混ぜておき、発生するにおいなどを調べた。その結果、当初の予想に反して、コーヒーには口臭の原因となる細菌の働きを抑える効果があることが分かったという。
 ローゼンバーグ氏はCNNとのインタビューで、「コーヒーで口臭が強くなるといわれてきたのは確か。だが、それはコーヒー自体から発生するにおいではないようだ」と語った。同氏によれば、コーヒーにはだ液の分泌を抑える成分が含まれているため、口の中が乾燥する。さらに、コーヒーに加えたミルクなどと混じって口に残ると、口臭が起きやすくなると考えられる。
 チームでは今後、コーヒーの消臭効果を利用して、口臭を防ぐマウスウォッシュ(洗口液)や歯みがき剤、ガムなどを開発したい構え。同様の研究はすでに、クローブの精油など一部の植物成分で進められている。ただし、実用化へ向けてカギとなるのは、コーヒーに含まれる数百種類の成分の中から有効成分を見つける作業だ。
 ローゼンバーグ氏は「成分の特定には長い時間がかかる」との見通しを示す一方、「今回の実験は、仮説が常に正しいわけではないということ、そして誤った思い込みから興味深い結果が生まれることもあり得るということを示す教訓になった」と話している。

http://www.cnn.co.jp/science/CNN200907060023.html

 しかし、コーヒーが口臭の原因のひとつと考えられていたとは知りませんでした。確かにコーヒー臭い人に話しかけられた経験はありますが、記事によると、コーヒーを飲むと唾液の分泌が抑えられて口が渇くため、口臭が起きやすくなるとかで、コーヒー自体の匂いではないようです。

 それよりも、今回の新たな発見は、口臭の原因を突き止めようとしたら、コーヒーの成分に原因となる細菌の働きを抑える効果があることが分かったこと。しかし、これまでコーヒーを飲むことが口臭の原因とされてきたということは、この消臭効果は、日常的に飲む量ではあまり期待できないかもしれません。成分の抽出が必要なようです。

 それにしても、メル・ローゼンバーグ氏の「今回の実験は、仮説が常に正しいわけではないということ、そして誤った思い込みから興味深い結果が生まれることもあり得るということを示す教訓になった」という最後の一言は、示唆に富んでいます

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ものごとを前に進めるためには、問題を具体的にすることが大切

 先週(3月15日)終わったドラマ『本日も晴れ、異状なし』に、自らの転落人生を他人の所為にして生きてきた人物が描かれていました。その後しばらくは、まず自ら省みて他を批判すべきと思っていましたが、「慢性痛」の感情コントロールを学んでいると、何でも自分の責任としてとらえてしまうことも、また良くないようです。

 そういえば昔、「みんな俺が悪いのさ」という上っ面の反省を、解決方向の見出せない「坊主懺悔」といって批判していたことを思い出しました。確かに、「すべて自分に責任がある」と背負い込んでしまうことも、「お前が悪い」、「あいつが悪い」と他人の所為にすることも、ついつい陥ってしまう陥穽ですが、いづれも妥当な判断とはいえないでしょう。

 すべてひっくるめて責任を彼我にかぶせるのではなく、具体的に問題点を明らかにすることが必要かもしれません。そういえば、「真理は常に具体的である」ということを誰かが言っていたような記憶があります。抽象的・一般的にとらえていたのでは、問題を解決することはできません。個別に具体的にすることで、何をどうしたら良いのかが明らかになると思います。

 そして、そのキーワードは、ポジティブあるいは前向きということになるでしょう。同じ過ちを繰り返さない、あるいは常にものごとを前に進めるという意識です。そういう点では、昔の断片を思い出して、無意味に自分の非を悔いることも、あるいは他人の非を咎めることも、あまり前向きとはいえないかもしれません。それを、これからの行動で、同じ轍を踏まないために、これから役立てるという具体的な目的があるならば別ですが・・・。

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高すぎる目標設定は自信喪失につながることも

 『asahi.com』のページ、1月19日付に、「新年の誓い、達成は10人に1人 『落ち込みの原因に』」というイギリスの精神保健事情を紹介した興味深い記事がありました。

 新しい年を迎え、「今年はやせるぞ」などと誓いを立てた人も多いと思われるが、英国で精神保健上の問題の相談や啓発をしている民間団体マインドは「無理な誓いは立てないで」と呼びかけている。達成できず、精神的に落ち込んでしまうことなどが心配されるからという。
 マインドによると、英国では約700万人が「新年の誓い」を立てると推定されているが、「自分は太っている」「自分は不幸だ」といった自己否定に基づく誓いは、それだけで、自信喪失や軽度のうつにつながる可能性がある。
 呼びかけはまた、1年後に新年の誓いが達成されるのは10人に1人という過去の研究を参照し、「多くの人は現実的でない目標を立てて『あきらめた』『屈服した』と感じており、精神保健上マイナスになっている」と指摘する。
 マインドは、無理な「新年の誓い」を立てるよりは、軽い運動や園芸などを続けることや、楽器演奏や語学の習得など何か新しいことへの挑戦を勧めている。

 日本だけではなくイギリスでも、年のはじめには、新たな思いで決意をする習慣があるようです。人類ですね、どこの国でも似たような発想をするものです。私も毎年、一応年間目標を決めるのですが、しばらくするといつのまにか忘れてしまっていることが多い。

 それにしても、自己否定から出発して、それを克服する目標を持つこと自体が、「自信喪失や軽度のうつにつながる可能性がある」ということですか。目標設定のために、現状から乖離したあまりに高すぎるレベルから見ると、確かにその時点で自信喪失に陥ることがあるかもしれません。

 否定をしなければ、新しいものは生まれないのですが、ただその否定の仕方が、現状から飛躍しすぎると、問題になるようです。他人の評価など気にせず、ほんの少し頑張れば、できそうな目標を設定して、一歩一歩着実にこなして行くほうが、精神衛生上は良いようですし、気持ちがずいぶん楽になるはずです。

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若かりし日々は「青春の宝物」?

 これまで長い間交流の途絶えていた学生時代の友人と、あるキッカケで久しぶりに郵便を交換しました。その友人からもらったハガキの文面に、貴「君たちと過ごした」「日々は私の青春の宝ものです」と書いてありました。これを読んで、ちょっと考えされられてしまいました。

 自分に「宝もの」なんて言える時期があっただろうか。若いときのことに限らず、過去を省みてみると、「あんな馬鹿なことをしなけりゃ良かった」というような、恥ずかしいことばかりのような気がします。しかし、それに懲りないで、後先のことを、あまり考えずに生きてきたこれまでのように、今もそんな生き方をしているのではないだろうか。

 これは人生をポジティブに観るか、ネガティブに観るかの違いだけではないのではないように思えます。生き方、人生哲学の問題かもしれません。よく言われる「楽しい思い出づくり」という言葉を、後ろ向きの生き方だと馬鹿にしていましたが、考えてみるとこの言葉には、「今を大切に、楽しく生きていこう」という哲学があるのかもしれません。

 小難しい西洋哲学を勉強したことはあるけど、自分に哲学はあるのだろうか。知識として身につけようとしただけで、自分自身のものとして、生き方として、咀嚼できてないのではないか。「学びて、思わざる」になっているのではないだろうか。もっと素朴で、単純で良い。自分の頭で考えてみたいものです。

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成功している人は終始、勝利への一本道を歩いているように見える

 まさにそのとおりですね。成功している人は、確かに他の人よりも何倍も努力したに違いありませんが、才能もあってチャンスにも恵まれて、順風満帆で来たように見えます。よく知らない人ですが、カナダのキングスレイ・ウォードという実業家の言葉。どういう状況で、誰に向って言ったことか、解説もないので分かりませんが、当を得た言葉のように思えます。もう少し詳しい発言内容は次のとおりです。

 「もし君が、私のしたことはすべて成功したと思っているとしたら、君は私の人生の大半について詳しいことをしらない。成功している人は、終始、勝利への一本道を歩いているように見える。その道を歩き続けるために敗北のために必要とされる粘り強さは傍目には見えない。打ち負かされ、失敗し、落胆し、そして欲求不満に悩まされないで相次ぐ成功を収めた人を、私は知らない。このような苦しい時期を乗越えられるかどうかが勝者と敗者を分ける。負けを恐れるあまり競争に参加しようとしない人たちのことを私は幾度話したことだろう」(『e-Searcher --- 世界の名言・金言・箴言集』サイトより抜粋)。

 全体をみると、実業家らしい発言です。何をもって、勝者と敗者を判断するかとなると、ちょっと難しいところだと思いますね。傍目や遠目で見ると、成功して名を成しているように見える人でも、自殺したりすることもありますから、一度成功したからといっても、決して安穏としていられるものでもないようです。ただ、人生には、負けたり、失敗したりして落胆したり、欲求不満に悩まされたりする紆余曲折が必ずあるけど、それに耐え抜く粘り強さが必要だということは分かりました。

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「内にある声」を引き出す 聞き上手

 西洋古代哲学研究者で専修大学文学部教授の神崎繁さんが、『きょうの健康』(2008年5月号)「人生のレシピ 第14回」で、興味深いことを書いています。

 近頃は、質問したり意見を求めたりしても反応がない学生が多く、問答することができない「沈黙の世代」となっているらしい。確かに、人と違うことを極端に避ける傾向が、「いじめ問題」などを通じて、垣間見ることができるような気がします。

 神崎教授は、「私自身のささやかな経験から言えることは、人は必ず話す事柄を抱えている・・・ただし、それが打ち明けられるのは、それを聴こうとする者に対してだけである。そして大切なのは、〈自分のうちにある声〉に気づかせることである」と指摘しています。

 人は生きていると、いろいろなことを経験して、大きい小さいはあってもそれなりの喜怒哀楽を感じています。確かに話すことが何もない人は、いないでしょう。ただ、その内容がその場や相手にふさわしいかどうか、求められているかどうか、聞いてもらえる相手かどうかを考えてしまうのではないでしょうか。 

 施術を受けに来て、沈黙している人はありませんが、痛み方やその場所を表現するのはなかなか難しいものです。その訴えの本質をとらえて、原因を的確に検出するには、しっかりした知識と技術を備えた「聞き上手」になることが必要です。そう考えると、私などまだまだ発展途上人ですなぁ。

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現実の日常生活の中で追求できる真理は何だろうか

 『小論理学』「予備概念」のはじめに、「論理学の対象は真理である」と、ヘーゲルは述べています。

 そして真理とは、「抽象的に言えば、或る内容のそれ自身との一致を意味する」、「例えば、われわれが真の友という場合、それはその人の行いが友情の概念に適合している人という意味である。同じ意味でわれわれはまた真の芸術品と言う」

 「このような場合、真実でないとは、悪い、あるいは、それ自身の概念に適合していない、というのと同じ意味である。この意味で、悪い国家とは真実でない国家であり、一般的に言えば、悪いおよび真実でないとは、事物の本性あるいは概念と事物の存在とが矛盾していることである」と言っています。

 ここでは、「論理学」の対象とは何かということについて述べられたものであり、個々人の生き方に言及したものではありませんが、身近な問題に引き寄せて考えてみようと思います。

 もちろん、真理を追究してその実現をめざすことは、いわば夢をあきらめずに追求することにも通じると思います。しかし、現実は様々な条件が錯綜しており、簡単ではないのです。

 命と生活がかかる重大事ですから、真の国家の姿を描いて実現をめざすのは、あらゆることの大前提とは思いますが、世間のさまざまな権力、利権、無理解が交錯して、一朝一夕にはできそうもありません。紆余曲折のある長い時間と地道な努力が必要なようです。

 個人的なレベルで考えてみると、「真のカイロプラクター」、「真の施術者」、「真の父親」、「真の夫」、「真の人間」、「真のトレーニー」、「真の○○」などいくつかありますが、最善をめざして取り組んでいることもあれば、「あるべき真の云々」など考えずに惰性的にやり過ごしていることもあります。

 すでに経済的な問題は障害になっていますが、いずれ近々の内に、大きな壁となって立ちふさがる可能性も見え隠れしています。根を詰めすぎたり、気を使いすぎるとオーバーワークで抑うつ状態になったりするかもしれませんから、あまり力まずに生きることも大切です。個人的な「真理」の追求は、ほどほどが良いもしれません。また、そのあり方はひとつだけではなく、多様な方法があるに違いありません。でも、日常生活の中でちょっぴり気をつけてみたいことです。

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読書百遍、意自ずから通ず

 いま、「つぶやき哲学」を書こうと、ヘーゲル『小論理学』予備概念の部分を読んでいます。何回目かになりますが、相変わらず難しい。しかし、「読書百遍、意自ずから通ず」ではないですが、言わんとするところが少しずつですが、分かるようになってきました。百遍も読んでませんが・・・。

 しかし、これをブログでつぶやくとなると、相当準備しなければできそうにありません。文章の断片を取り上げて、批評したり感想を述べたりすることは、簡単にできそうですが、それは私の本意ではありません。間違っていたとしても、ヘーゲルの言わんとするところをつかんで、つぶやきたい。

 このブログのメインは、施術日誌として、1日の終わりに日記的に書いているものですから、夕方にジタバタしてテーマを探すことがほとんどです。今週からいくつかテーマを決めてはいますが、安易に決めたテーマほど、書くのに苦労します。

 「つぶやき哲学」を書く目的は、ものごとを哲学的に見るため、自分自身の目を養うことです。期待している人もいないでしょうが、これから少し本腰を入れて準備しますので、もうちぃーと待ってやってください。でも難しい本を読むと、眠くなるんですよね。

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今日「悦びをもって、われ生きたり」と言えるか

 古来ローマの哲学者に、ルキウス・アンナエウス・セネカという人がいたそうです。セネカは、「長い人生をあたかも一日しかないように大切に、逆にまた一日をひとつの人生であるかのように丁寧に生きることの重要性を説いた。そして眠るときには『悦びをもって、われ生きたり』といえるかどうかを一つの指標とするよう勧めた」そうです。(参考:『きょうの健康』2008年3月号 神崎繁 「人生のレシピ」)

 「悦び」といっても、毎日毎日「やったぁ、嬉しい!」の連続ということはないでしょう。「丁寧に生きる」「悦び」ということになると、どういう生き方でしょう、ちょっと考えさせられます。ふり返ってみて、日々充実しているというわけでもないし、必ずしも、一日中何かしていない、といけないということでもないでしょう。結構難しいですね。

 でも、「良かった探し」ならできるかもしれません。さて、今日はどうだったかなぁ。平々凡々とした一日だったけど・・・。そういえば、「首をまわすと右肩が痛い」と来店されたAさん(70代 男性)が、整形外科の検査では頚椎に異常なしの診断だったと言われるので、上部胸椎に重点をおいて検査と矯正を行なったところ、施術の後、痛みが大分軽くなったとのこと。すっきり改善とはいかなかったのですが、それでもAさんの苦痛を少しでも克服できたので、半分ですが、今日の「悦び」です。

 それにしても、お客さんに施術するときは「丁寧に」に生きていますが、それ以外はほとんどグータラに生きているので、一日の短いこと。ちょっと考え直してみますか、難しそうですけど、「われ生きたり」と言えるように。snail

 

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自己否定をしながらアイデンティティを保って無限に前進する

 ふと、昔のことを思い出して、「あんなことしなけりゃ良かった」とか、「恥ずかしいことをした」とか後悔したり、「あの時は引き下がってしまったが、今度そういうことがあったら、こうしてやる」と興奮したりすることは、ありませんか。

 どこかの政治家のように、過去の失敗に無関心で、いつでも自分は正しいと思い込むのも困ったものですが、あまり昔のことにこだわりすぎるのも問題です。

 後悔しているという場合は、すでに過去の自分を客観的に見ることができている段階ですから、もう一歩進めて、なぜそんな失敗をしたのか、二度と同じことをしないようよく考えることが大切ではないでしょうか。

 興奮する場合も、必ずしも同じようなケースがまた繰り返されるとは限りません。闘争本能を刺激すると交感神経が興奮して、健康にあまりよくないようですし、いやなことは忘れるに限ります。これもまた、論理的に道筋を考えて決着を付けた方がいいかもしれません。

 昔の至らない自己を否定することで、前進させる。これが大切です。「いや今もたいしたことない」と言われると身もフタもありませんが、「あんなことをしてしまった」時の自分よりは、少し進歩しているはずです。

 少しずつで良いんですよ。それでも自分なりの個性を貫きつつ、限りない前進をめざして、生きて行きたいものです。

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つぶやき哲学の前置き

 新年のあいさつで決意した哲学の話を、今後始めていこうと思いますが、その前に前置きが必要です。もともとブログのネタ不足を補うという不純な動機で、以前学んだことのあるヘーゲル哲学(あまり世間一般では馴染みがないと思いますが・・・)を、現在社会で起こる様々な事柄と結びつけて考えていけたらと思いついたことです。

 ヘーゲルの『小論理学』をタネ本にしてやってみようと思うのですが、しかし、これがやっぱり難しい。ブログネタに困ったからと、時間がないときに間に合わせで、サラッと読めるような本ではありません。ですから、読んで理解して、さらに今起こっている事象と結びつけて考えるという作業は大変です。しばらく準備期間が必要です。

 しかし、いい齢として、学ぶだけではもうひとつ意欲が湧かないので、考える哲学に踏み出して見ようというわけです。解説書は使わず、原典そのものを読んで考えたいと思っています。「つぶやき哲学」ですから、きっと見当違いや間の抜けたことがあるはずです。

 もちろん、この「つぶやき哲学」は、ヘーゲル研究の最先端を探るわけではありません。そんな大業は専門家にお任せします。まさか哲学の専門家や研究者が、この『あおぎり日誌』を読むことはあるとは思いませんが、もしそんなことがあったとしても、ご期待には添えませんので、悪しからずご了承ください。あくまで素人のつぶやきですから・・・。

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十年先のこと 考えられるかなぁ

 『不毛地帯』に兵頭信一良(ひょうどうしんいちろう)という人物が出てきます。

 「兵頭は、三十五歳という齢に似ず、泰然自若とした風貌を備え、会社と自分の仕事をいつも十年先まで考えている逸材の一人であった」と評価されています。

 「逸材」といわれる以上、作品の舞台となっている半世紀ほど前でも、十年先まで考えている人間は少なかったのでしょう。今はどうですかね。

 今の社会は、四十年たっても、五十年たっても、変わって欲しくても変わっていないものがある反面、恐ろしいほどのスピードで変化・発展していくものがあります。

 そんな先のことなど考えられないかもしれませんね。仕事も年金などの社会保障もこれから先どうなることやら、皆目検討がつかないご時世ですから・・・。

 省みてみると、あまり考えてないなぁ。十年先かぁ。せいぜい一年先くらいのものですよ。考えられるのは。根拠の乏しい空想はできますが、将来を展望するとなると、難しい。

 しかし、「これから自分は、どうなってしまうんだろう」ではなくて、「これから社会がどうなって、自分はどうするか」という視点で考えなくてはいけませんね。

 逸材などではなく、いつの間にか朽ちた廃材のようなものになってしまってますから、きちっとした見通しはできないでしょうが、そういう視点は大切にしたいですね。

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貧にして楽しむ

 「貧にして楽しむ」、いい言葉ですね。出典は『論語』です。

 貧富を気にせず、清貧に甘んじて人生を楽しく過ごす。もう開き直りに近いですね。ここらで気持ちの持ち方を、切り替えますか。 

 今日はお客さんの数が少ないとか、今月は赤字になるかもしれないとか、父親としての責任とか、くよくよ鬱々考えてもなるようにしかならない。

 今でも、結構自分の好きなことをしてはいるのですが、時として店の経営状況などを考えると、鬱々としてしまうことがあります。家族にもツンケンしてしまうことが多い。

 しかし、1回しかない人生、楽しく過ごさなくては。今日は何をして楽しむか。どうやって家族や周囲の人たちと楽しく過ごすか。絶えずこれを考える。力まない程度に。

 孔子言う元々の意味とは違うかもしれませんが、仕事も、生活もすべて、「貧にして楽しむ」。そういう常に前向きの視点で、向ってみようと思います。

 「あ~今日も、一日楽しかったなぁ」とか「楽しませてもらったなぁ」と、寝る前に毎日言えるようにしたいですね。

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学びて思わざれば即ち罔(くら)し、思いて学ばざれば即ち危うし

 孔子の『論語』の中に出てくる言葉です。高校時代、漢文の熱心な先生に教わったことを覚えています。

 高校時代の勉強は、断片的な知識の詰め込みばかりだったので、ピンと来ませんでしたが、社会に出て長く生きているとようやくこの言葉の意味が分かるようになってきました。『論語』そのものを読んだ記憶がないので、もともと孔子が言いたかった意味は、はっきりとは分かりませんが、いま私はこう解釈しています。

 知識を詰め込むだけで、自分でものごとを考えようとしなければ、何ごともできない。先人の教訓を勉強しないで、自分の思いつきや個人的判断だけで 実践しようとすれば失敗することが多い。学習と思考の統一こそ大切だということではないでしょうか。

 とはいえ、そのためにはどちらにも努力が必要です。新しい施術の方法や解剖学や症例の知識を得るのは喜びですが、難しい文書を学ぶことには苦しみがともうこともあります。また、なかなか改善しない症状やはじめて出会う症状には、どう対応すべきか考え込んでしまいます。頭をひねって、無い知恵をしぼり出さなければいけません。

 ステレオタイプや浅知恵で、検査・判断し、施術することを戒めるためにも、この言葉は今後とも、座右の銘にしたいと思います。

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肯定的理解のうちに否定的要因を見出す

 ものごとを変えるためには、そのものを肯定的に理解した上で、その中に本質的な否定的要因を見出し、それを否定する(変える)ことが大切だと、若い頃に学んだことがあります。言いかえれば、予断や偏見をもたずに、ものごとに接し、冷静に観察して、そのものの中心的な問題点を見つけ出すことが大事だということだと思います。

 身体の不調を訴えて来店されるお客様の症状改善に対しても、そういう態度が求められているのではないかと近頃考えています。お客様の言われることをよく聞き、人によって千変万化の痛み方や症状、可動性の障害による苦痛などに共感した上で、適切な検査を行ない、原因を見極めて、縦横無尽に対応することが理想だと思います。

 しかし、年だけ喰って、施術経歴ではまだまだ青二才の私には簡単なことではありません。せっかちで気短なものですから、人と話をするときにも、即座に理屈や結論を出して押し付けたりしがちです。そうではなく、まず相手の訴えに共感する。そこからはじめて、対話を通じて、お互いに問題点を確認しあって、それを解決する方向を見出すようにしなくてはいけませんね。まずお客様の訴えをじっくり聞くことからはじめ、理想的な施術をめざして日々精進を重ねたいものです。

 

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